
昭和37年から40年頃、このコカコーラの自動販売機が日本に本格的に普及しました。私の5才ごろからの風景です。
この頃に、母親の働くプラスチックで食器などを作る大きな工場の文化祭の舞台のカラオケ大会で、私は、2000人ほどの工員の前で「ふるさと」を歌いました。幼稚園の頃です。
舞台の袖では母親が優しく見守っており、私はバックの生演奏で「兎追いし・・」と歌い始めました。
歌謡を歌うステージで、子供が童謡を歌う場違いさからか、酔っ払っていた一人の髪の長い工員が、客席の後ろの方から、「引っ込めー」と舞台に向かって叫びました。
そこで、母親が舞台の袖から飛び出してきて、舞台の上からその工員に向かってマイクなしで、とても大きな声で「あんた、もう一遍言うてみー。ここあがってきいや」と叫びました。
一瞬で客席は静まりかえり、演奏は止まり、その工員は申し訳なさそうに小さくなり、周りの工員からなだめられ、下を向いてうなだれていました。
そして、母親は僕に向かって「政樹、も一遍歌い」と言い、伴奏者にお辞儀をして、又曲が始まり、僕は最後まで歌いきり、客席から大きな拍手が湧き上がりました。
参加賞として、母親の工場で作っていた、水色と内側が白のプラスチックが二重になった保温マグカップをもらい、とても誇らしくて、うれしかった思い出が全ての始まりです。はっきりとして映画のような映像で細部まで覚えています。
それから母親と私と妹の3人家族でいつも歌う歌が故郷でした。
そして20年ほど前に新しい伴侶といる離婚した父親の家に遊び行った時、父親がハーモニカで吹いてくれた曲も「故郷」で、そして15年ほど前に父の葬式で流れた曲も「故郷」、なぜか、その曲を聴いた私は大号泣してしまいました。
KAWACHIAN Story 001「新歌舞伎座」

左に見える建物は、新歌舞伎座。
僕にとって、この街は故郷の一つでした。
母は、大阪で演芸や格闘技などの興行に携わる家族のもとで育ちました。
そのため幼い私は、母に手を引かれ、新歌舞伎座や道頓堀、心斎橋、千日前といった大阪文化の中心を歩いていました。
役者さん、芸妓さん、興行師、看板絵師……。
幼い僕の周りには、普通の子どもが出会うことのない大人たちがいました。
看板絵師の先生に絵を教えていただいたこと。
大きなプロレスラーに軽々と抱き上げられたこと。
祖父と手をつないで道頓堀を歩いたこと。
街のおじさんやおばさんが、祖父を見ると笑顔になり、幼い僕の頭を何度も撫でてくれたこと。
特に新歌舞伎座の中では、役者さん、芸妓さんが山ほど私の頭を撫でてくれたことは、子どもだった僕は、そのたびに体が沈むので、少し嫌だったことまで、今でも鮮明に覚えています。
そして、この頃の記憶の中には、二歳で離婚する前の父と母が仲良く歩く姿もあります。
チンチン電車が走る難波の街。
その景色だけは、今でも映画のワンシーンのように心に残っています。
僕は河内で育ちました。
でも、歌の原風景は、この難波の街にもあります。
KAWACHIANの歌の中に流れている、人情や温もり。
その始まりは、この街だったのかもしれません。

